〜山吹薫の場合 その1〜
静かな場所である。古い照明だけの薄暗いカウンター。とあるBARで山吹薫は一人で洋酒を傾ける。顔は沈んでいる。カウンターの向かいには進藤 守(しんどう まもる)がグラスを拭いていた。
山吹よりも長身細身で整った顔立ちなのだが、不健康そうな顔色と悪い目つきのせいで、日が暮れたら余計に凶悪に見えた。
・・・お前が落ち込んでいるとは珍しい。若手の時以来だな。
状況は知っているだろうに。
まぁな。
進藤は視線を背けて自身のグラスにも洋酒をついだ。それは琥珀色をしている。
夜な夜なBARで働く不良言語聴覚士(ST)であり、僕の同期でもある君から何かアドバイスはないのか?
夜な夜なも、不良も余計だね。こうやって週末に実家の手伝いしているだけだ。副職でもなんでもない。むしろ給料を出して欲しいくらいだ。
半分趣味だろうに。
まぁな。と進藤はグラスを口に近づける。カランと重々しい鐘の音とドアが開く音がした。山吹と進藤はドアを見る。かつての赤い髪は黒くはなったが、その内面にまるで変化はない。
沢尻悠(さわじり ゆう)を見て山吹はチャラいという言葉を再認識するのであった。
おっ!いたいたー!本日話題の理学療法士である。薫さんじゃん!
進藤・・・お前・・・
現存するお前の教え子の一人だろう。
だねー!あの病棟の生き残りである私が分相応だとは思いましたが、思い悩む山吹さんのために参上致しました~。
沢尻は仰々しくお辞儀して、山吹はカンターへと突っ伏し、進藤は見えない角度で笑みをこぼした。
〜白波百合の場合 その1〜
がちゃがちゃと食器やグラスが音を立てる。人の話し声で包まれた居酒屋は週末ともなると華々しい。その一角に目が開かないほど瞼を晴らした白波百合がいる。
その向かいには小柄で長くゆるく巻かれた細い髪をと、隙なくメイクされたパーツの小さな顔立ちのおそらく白波と対極に位置する女子である坪井 咲夜(つぼい さくや)がいる。そして無地のシャツにジーパン、長く伸びた手足は折れそうなほど華奢であり、なおかつ長身だ。その白波が憧れる体系である上代 葉月(かみしろ はつき)がその隣に居た。
互いの目の前には黄金色で並々とジョッキへと注がれた麦酒が置かれている。
ううう~。
いい加減泣き止んでくれへんかなぁ~。
気持ちは分かるけど、いい加減周りの視線が痛い。
白波は顔を隠すことなく子供の様に鼻をすする。しかし口に運ぶ食事の量は止まる事は無い。次々と食器は積み上げられていく。
だって~、腹立たしくて悔しくて申し訳なくて恥ずかしくって、週明けどんな顔して先輩に会えば良いかわかんないっす~。
それは確かに・・・な。
坪井は俯いてみたが耐え切れずに大きく吹き出す。そして坪井はたまらず仰け反り笑い声をあげた。
笑わないでっす~。
だって!アカんやん!病棟から白波が泣きながら走ってきた時は流石にヤバイと思ったんやけどね。
その後な・・・・。
上代もまた顔を背けて必死に笑いを堪えているが隠しきれてはいない。
上代まで~。
だって・・・すまん。いつも仏頂面の山吹先輩が焦った顔ですぐに追いかけてきて・・・。
『嫌いっす~』と叫びながら更衣室に逃げ込もうとする白波を必死に・・・『すまん!僕が悪かった!』やもん。もう近年稀に見る当院のスキャンダラスな事件やんかー!
白波は、はわはわと口を開けている。坪井と上代は只々笑っていた。
〜山吹薫の場合 その2〜
まぁ結論から言うと先輩は人間味が薄いっすからね。
過程が乏しくて意味がわからない。僕は人間だ。
そういうところっすよ。と山吹の隣に座る沢尻はニヤニヤ笑っている。進藤はグラスを吹いている。
『セラピストと患者ではあるが同じ人だ。故に人としてリハビリを行うよ
うに』ですよー
それは僕が教えた事だな。まぁ受け売りではあるが。
沢尻さんは頭が良いっすからね。じゃぁ山吹先輩と白波ちゃんは何なんすか?
上司と部下だよ。指導者と生徒だろう。そしてお互いプロのセラピストだ。
それの何処に人が居るんすかねぇ。例えば山吹先輩は白波ちゃんが何を好きで、何が嫌いで、どう言った『人』なのか知ってる?
ふん。と鼻を鳴らしてそっぽを向いて、山吹は黙る。
あの沢尻くんに諭されるとは面白いな。でも否定はできないだろ。
うるさいな。
素直じゃないっすねぇ。後輩にしか分からない事もあるんだからー。そして山吹先輩と違ってあの子は若くて可愛い女の子なんだよー?
ふん。と山吹は鼻を鳴らしてグラスを傾ける。プロのセラピスト。その肩書きが無かったら自分は若い女の子に対して大人気なかったとも思える。
酔っているな。と山吹は考える。
しかし沢尻くんも成長したじゃないか。チャラいだけの人類だと思っていたよ。
お世話になりやっした。どうっすか山吹先輩。今やケースバイザーをこなす後輩の姿は?
ふん。と山吹は沢尻を向き直り、片方の口角を上げて笑みを浮かべる。
それなら成長をした沢尻くん。呼吸器慢性疾患患者における栄養状態の管理と運動療法の及ぼすメリットについて、昔を思い出して答えてみようか。
うぇー!そんなずるいじゃん!えぇと・・・。
目を背ける沢尻と、静かに笑う進藤がそこにいる。たどたどしく答える沢尻を眺めながら、あの子をいつか呑みにでも連れてこようか。山吹はそう思った。
〜白波百合の場合 その2〜
そもそも百合は真面目すぎるんやって。もっと適当にあしらっとけばええやん。
泣き出すくらいならやんなきゃ良いのに。勉強する事は大切だけど。
いつの間にか構図は一対二に成っている。背中を丸めつつ白波はそう思った。
だって・・・と答える。
ウチが迷惑を掛けているのは正直わかるし、フォローしてくれてるのも
知っているっすけど、それが悔しくてっすね・・・。
せやけどな。と坪井は続ける。上代は再びビールをたのむ。何杯目かは分からない。
正直羨ましくもあんねん。新人や学生でも無いのに先輩が付きっ切りで教えてくれるなんてほぼ無いやん?二年目になったら『はいどうぞご自由』にやもん。
それに中々の男前だ。
ほんまそれ!と坪井は両手をテーブルに突っ伏した。すっかり酔っているなと白波は思う。確かに二年目になっても仕事ができるだけで、学生の時の方が賢かった気がしないでもない。
プロになって新人でも無いなら何でも出来るわけじゃないし、独学でも限度はあるやん?教えてもらわな気がつけへん事も沢山あるやん?それなのに考えろ!やのに知らへんかったら考えもつかへんやん!
咲夜・・・呑み過ぎだ。
坪井はすっかり管を巻いている。でも坪井の言うこともよく分かる。ただそれは甘えと評価されてしまう。だけどそういえば山吹先輩からそう直接言われたことは無かった。勉強しろと言われるだけだ。自分で考えろと丸投げされることは無い。
ただ山吹先輩もいろいろ問題あるけどなぁ。自分が出来るからって人を馬鹿にしてー。全然優しく無いやんなー。
上とも良くぶつかってるしな、正直持て余すから今の部署なんだろう。
確かにウチが望んで一般病床に行くまで先輩は一人だった。なんだか白波は目の前の二人にムカムカしている。坪井が口を開こうとした時、白波はバンとテーブルを叩いて立ち上がる。
そんな事無いっす!先輩は確かに嫌味っぽいけどちゃんとウチが分かるうに教えてくれるんスよ!?それに一人でもずっと勉強してウチが怒られた後ちゃんとフォローしてくれてるっす。
坪井と上代は違いに顔を見合わせ、一瞬遅れてケラケラと笑い始める。
なら今から伝える住所に行って謝ってきいな。沢尻さんが教えてくれてん。
迷惑は掛けたのは事実だしな。そして咲夜、あんたいつ連絡先なんか。
秘密ーと坪井は答えた後、まぁチャラいけどなー。となにやら返信している。白波はただただ目を丸めている。
あー今から向かわせます・・・ともう送ってしもたなー。
・・・と言う事でその後の話は後日よろしく。
ありがとうっす!
白波はそのまま駆け出した。坪井と上代はヘラヘラ笑って見送った。そしてその後二人は、白波が一銭も払って無い事に気がついた。
〜白波百合と山吹薫の場合〜
そろそろ帰るか。山吹が席を立とうとするとガタン!と店のドアが勢い良く開いた。騒々しいと山吹がドアを見てガタンと姿勢を崩す。
先輩!どうもすみませんでした!!
白波は頭を下げる。姿勢は綺麗な直角だ。山吹は沢尻を振り向く。素知らぬ顔で沢尻はカウンターの向こうを向いている。
先輩のお心も知らずに致し方無いとは言え、お望みならば何なりとお詫びを・・・
喋り続ける白波を山吹は制する。
無理して丁寧な言葉は使はないで良いよ。武士みたいだ。そうだな。なら・・・
・・・はい・・・?
もうちょっと呑んでいくから付き合え。
はい・・?と白波は首をかしげた後、ピョンと少し跳ねる。そしてドタドタとカウンターに腰掛ける。うっすら尻尾が振れているのが山吹には見えた。
白波ちゃんこんばんはー。鉄面皮で仏頂面で嫌味っぽい先輩ができて災難だったねー。
大丈夫っす!そして沢尻先輩もありがとうございました!
やっぱりお前・・・。そして酷い言い方だな。
可愛い女の子を泣かせるような先輩には、これくらいがちょうど良いんだよねー。
山吹はぐうの音も出ない。白波はえへへ~となぜか照れている。山吹は目を細めて進藤を見る。
どうやらウチに来る後輩達は変な奴らばかりらしい。
元はお前もその一人だろうに。
まぁな。と山吹は答える。山吹は両脇で耳を立てる二人の後輩の気配に気がつく。
なんすかなんすか!?先輩の昔話っすか?
それ聞きたいっす!先輩の失敗談を中心に!
なら俺から一つ聞いても良いかな?それに答えてくれたら教えてあげても良いが。
どうぞ!と二人の後輩は声をそろえてそう言った。
『肺炎に伴う心不全の進行とそれに伴う腎不全のリスクに対して観るべき検査データからリハビリの進行に伴い考える事』を教えてくれ。
むっと二人は黙る。山吹は笑みを浮かべてグラスを傾ける。そして頭を悩ましあれこれと喋り出す二人を眺めながら夜は次第に更けていく。
昔とは違う賑やかな夜になったな。
いつのまにやらな。
頭を抱える両脇の後輩を眺めながら山吹は氷の音を鳴らす。静かな夜は賑やかに更けていくのだった。
~山吹薫のメモ 4~
・プロとして扱う事も必要だが、肩書きを外せば同じ人である事を忘れない。
・セラピストに知識を伝える事は簡単だが、人に心を伝えるのは難しい。
・白波を若い女の子としての扱い方も念頭に置く←これについては思案の必要あり。
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